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おそるべき理解魔

Cut (カット) 2013年 12月号 [雑誌]

 

今週号の日経ビジネスは「2014 日本の主役 100」というテーマだったのだけれど、とても興味深かったのが昨年、最も輝いていたといっても過言ではない堺 雅人さんについて書かれていた部分である。

 

主役である100人一人ひとりそれぞれについて、付き合いのある方が紹介文を書くという構成になっていて、堺 雅人さんについて書いていたのは高校時代にカウンセラーとして話しを聞いて以来、20年のお付き合いがある宮崎県立看護大学教授の伊藤氏によるものであった。

 

そして伊藤氏は堺さんについて次のように語っている。

堺 雅人は「理解魔」である。おそるべき、という形容詞をつけてもいいかもしれない。ただ、それは彼がすべてを理解できる能力を持っているということではない。逆に彼はいつでも「理解」が足りないと思っているだろう。だから「理解」するための実に壮絶ともいうべき努力をする。そして、たゆまぬ努力家が謙虚であるように、彼はいつも謙虚である。

 

高校時代、国語担当の先生が堺さんに満点を取らせないように苦心して問題を作っていたそうだ。それだけ文章の理解力は抜群だったそうである。この能力は俳優という仕事柄、台本に書かれていることをどれだけ深く理解できるか否かで役の演じ方も変わってくるのだから、あれだけの素晴らしい演技が出来る堺さんにはこの「理解力」という才能が大きな武器になっていたのだ。

 

今日の学びは、
この「理解をする」という行動は、大きなエネルギーを必要として、苦しいことが多いのだが、その困難を乗り越えた時の成長力は凄まじいものがある。

ということだ。


私自身、学生時代の勉強方法を思い起こせば、そのやり方が誤っていたと後悔している。どの科目においても徹底的に「暗記」することを重視していて、その試験の問題を解いているその瞬間にさえ記憶が残っていればよかった。ただ結果が残ればよくて、その大事な試験の後は忘れてしまっても何ら問題ないというスタンスで勉強していた。


しかし、「暗記」と「理解」は似て非なるものだ。
暗記したことを実際に使い続けていれば、いずれ「理解」にかわり体に染み込んでいくのだろうが、その場限りの暗記はやはり、その場限りの知識になってしまうのだ。


実際にその反動を感じることはある。
数学や英語など基礎的なところは本来勉強してきたはずなのだが、やはり忘れてしまっていることは多く、結局一からのやり直しを強いられた。それから私は30歳過ぎてから大学院へ行っているのだが、どうも理解するスピードが鈍く感じるのだ。年齢と供に記憶や理解力は衰えるのかもしれないが、根本的に高校や大学時代の「暗記勉強の弊害」により「理解をする」という習慣があまり身についてなかったのかもしれないと感じる。


ただ過去を悔いても仕方ないので、今からでも一つずつ丁寧に「理解をする」という習慣をつけていきたいと思っている。そのためにこのブログという環境はなかなか有用であり、他の方のブログを読むことも様々な視座を頂けるし、書くことで自分自身の頭の整理や理解度を向上させる役割を果たしている。ある意味ブレインストーミングの場になっているのだ。

 

最後に、ご存知の方も多いと思うが、堺さんが2013年を振返り表現した言葉がこれだ。

本当に無味乾燥なやりがいのない1年でした。何も残らなかった

 


そして、こう続けた。

もらったものを誰かに渡すための1年だったから、僕のところには何も残ってない。それが、お客さんに伝わったんだったら僕は非常に嬉しい

 と。


解釈は人それぞれだろうが、これだけフィーバーしてもこのコメントはやはり自分をしっかり見つめることが出来る方なのだ。どの分野においても一流になる人は「自己成長欲」が強く、自分に高いハードルを課す方が多い。これだけ意欲の高い堺さんがこれから、どのような形で進化されていくのか1ファンとして楽しみだ。

 

そして舞台は違うが、私も頑張ろうと改めて思った。